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轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治13年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治8年の村名古くは土々呂村と書く豊後国大野郡宇田枝【うたえだ】郷のうち岡藩領大野川の支流奥嶽川右岸の山間部に位置する宇田枝組に所属村高は「正保郷帳」59石余,うち田28石・畑31石余,村内に茅山がある「見稲簿」同高安永7年の小庄屋は勘左衛門(農民一揆)寛政3年59石余・免6ツ3分,村位は中,庄屋は安左衛門(名面帳)「天保郷帳」59石余,「旧高旧領」60石余延宝5年又左衛門が当村内に錫山を発見,岡藩は米5俵を下賜翌6年権三郎が大鉱脈を発見,米10俵の下賜を受けた元禄3年錫の採掘は中止された(両郡古談)享保19年左右知村鍛冶浅右衛門が,轟村大内山で銀山を発見,元文元年藩に届け出た(加藤家古記録)「豊後国志」には上質の白銀・鉛・錫を産出,山中市をなしたが,錫のみの採鉱となり,他は廃坑となるこのほか水晶・白石英を産出したという明治4年大分県に所属同8年深谷村とともに左右知【そうち】村に合併現在の大野郡清川村大字左右知のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
轟村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」